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2016/7/8

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君は笑っているのか?

2015/8/21

人との関係は自己のあり方を変える可能性を持ち、それはそれで人の生活に対して、OPEN AND CLOSE の二つの意味を持っている。

哲学においては、人は個人的な利己主義をとらなければならず、それは果てしなき死の手前までしか使えない一つの道具であるのだ。日々の生活の中での利己主義とは違った哲学の中での一つの閉鎖性を含む大きな真理である。

しかし、日々の生活の中でそんなことを考えて生きていることは稀であり、稀であるが故に、形而上的なものが存在するのか?と思わせるが、哲学的にも日々の生活的にも、生とはもっと単純なものであり、素晴らしいものである必要がある。

人に認識できないもの、それは知識的なもの?をどの様に人は認識するのか?それとも認識できないのか?

2015/8/11

結論から言うと、人にはすべてのものを理解する力がない、それはすべてのものを認知することが出来ない、と言う意味である。従って、人の認知とは不完全なものであり、不完全なものである故に、不完全な認知の中で、認知を最大限に満足しなければならないという、人間の宿命があるのである。それは、形而上なものが存在しない、似非な形而上的なものがあるのである。その中で、私達の形而上学的な“愛”をどの様に理解するのか?それは、あくまでも世の中の位置を確認する、私達の一つの形でしかないのである。それを理解するのが、私達の世の中をすみやすくするための一つの方法である。

科学の進歩に対してどのように我々の存在観念が変わるのか?

2015/8/6

これだけ世の中の進歩、(決して人々の倫理の観念が上がったとは思えないが)が早いと、私達の存在の観念そのものの存在感自体が早く変わってくる。人々の存在とはその時代の科学の進歩と比例して新しい観念、認知へと変わってくるのである。すなわち、私達の存在とは現時点ではそこまでの世の中の技術により保証されているのであるが、それ以上の技術進歩が起こると私達の存在自体が新しいステージに上がるのである。(もちろん下がることにより、存在の正当性が新しい認識になることもあるのではあるが)私達、生きとし生けるもの、は進歩をして生きている。(後退していてもすれは、進歩である場合がある)しかし、科学において新しい発見、新しい進歩が起こると新しい概念が産まれ、私達の今までの存在観念を脅かす。それが私達に何かを影響させるのか?という問題は別にして。

ITの進歩により、近い将来コンピューターが人類よりも優れた頭脳を持ち人々を凌駕するといわれているが果たしてそんなことは起こるのだろうか?もちろん私達には未来がわからない?それはありえること?であり、ありえない?ことでもある。しかし、コンピューターには、システムをコーピーできるという長所があると同時に短所がある。もしネガティブなシルテムをコピーするとすべてのものが後ろ向きに進み、消滅してしまうのでは?しかし、そこも将来は解消されるのかもしれない。しかし、生き物は前向きな力が存在する。(ここら辺はニーチェぽい)そこに人の存在価値と存在意義を認めるのであるが、それは私が希望的観測を持っているからかもしれない。しかし、私達の存在観念は確実に今の人々が抱いているものと違うであろう。

やはり未来は見えないし、そのようにしかならない。(確立統計論のすべては50%で続く)を判断理由にするのかもしれない。わからないことが多すぎるので人生は楽しい?のである。その存在観念を感じてみたいが。

世界のすべてのところで物が高いのだが、本当に日本は大丈夫なのであろうか?

2015/7/30

小売業である。それも地道に靴を売っている。裸足で歩き回っている人を見ることは、この頃なくそういった意味において靴業界とは、生活の一部である。加えて、アパレルとくらべるとサイズの幅が大きく、参入障害が高いのである。そんな状況にあっても、一つの靴屋として生態を組むのが難しい。特に、これだけテクノロジーなる物が発達すると、小さなメーカーさんが開発費に大きなお金をかけることが出来ずに、つぶれていく。(日本でいうと浅草、神戸の長田が有名)浅草などを回って話を聞くと、多くのメーカーさんが厳しそうである。先日もアカクラさんがうまくいかなくなり、多くの小さなメーカーさんが注文分の在庫の処理を考えている?というような話を聞く。

理由は簡単である。売れないのである。日本の人が商品を買わない?もしくは。買えない?のである。考えてみてほしい。アメリカに行くと朝食は10ドル(1200円ほど)以上だ。安いサンドイッチであってもそのぐらいする。台湾の屋台で普通のそうめんラーメンを食べる。250円はする。それを日本の吉野家さんなどとくらべると、明らかに吉野屋の方が量もあり、うまい。しかし、日本の物は安い?本当に大丈夫なのであろうか?そんなことを考えていると、日本は衰退しているとしか考えられない。どこでどのように間違えてしまったのか?

まずは教育システムが悪い。(ガキがいるので絶望的なことを感じる)
高齢者が多すぎる。そして彼らがほとんどの資産を持っている。
競争がグローバルではない。(井の中の蛙である)
政治が悪い。(政治家が、ワンピースのルフィーの様に気をまとっていない)
切りがないので、これ以上は書かない。時間もない。

今日も暑い。暑いから夏とよぶのか?冬が暑いとおかしいのか?世の中におかしいことがたくさんあるが?どうして人は、おかしいと思わないのであろうか?

ところであなたはどこに行くのか?それとも来るのか?2

2015/7/22

言葉のなかに含む意味とは何なのでしょう?
言葉は音によって意味をなしますが、その意味は共同幻想でしかありません。何かのルールがあってルールがないところでは、人々はお互いの意味を伝えることは出来ないでしょう。もしくは、人は自分で何を言っているのかわからないでしょう。わからない中では、人は言葉なくして何を意味しようとするのでしょうか?それは、野生の叫び(腹が減る、生殖をする、自然に対しての自己防衛)しか表すことしかないのかもしれません。しかし、ここに人類は言葉を覚えた。それは、アイロニーでしかありませんが、ルールをつくった。人の中のルールをつくり、人の中でしか当てはまらないルールで人が人の行動に範囲を与えた。それは言葉が大きな役割を持ち、言葉なくして私達はこの世の馬鹿さ加減を語ることが出来ないのです。もちろん私の書いている文章もある程度、ルールの中で活きています。そこには、私もわからないことがあるかもしれませんが、そんなことお構えなしに、私は書き続けます。それは、単なる自己満足でしかないのかもしれません。いや自己満足です。私の言葉には自己満足しか存在しないのです。なぜ人は自己満足の中で生活しているのでしょうか?寂しいからです。人は一人で生きられないのです。社会的動物です。生殖以外にも他者の存在を意識するのです。
しかし、少しこの頃話す言葉が減ってきました。話すことがなくなってきたのです。なぜでしょう?私が求めるものがすこしわかってきました。そうすると私は話せなくなるのです。話せないので、笑うのです。そうなると最悪です。私の私の私の私が言いました。どこまでも続く道はないのです。すべての物に、もちろん宇宙にも終わりがあることを祈って私は、沈黙します。そこに含む意味とは、私が私の中で私に問うことです。それが言葉になって私に訴えかけてきます。それが言葉の意味であり、意味の中の私なのかもしれません。どこにいくのでしょうか?彼が話し合たこと。彼女が話したこと。言霊が飛んでいます。私の周りを回るそれらを私は包んで私の中に入れこみます。言葉が言葉を食べて私の言葉が減ってきます。
小説になりそうなコンセプトです。漫画の方が良いかもしれません。それも小束が言葉を食べる前しか、私は言葉を発生させることが出来ません。言葉は、生きていて私を殺していきます。言葉は、死神なのかもしれませんが、神であるのかもしれません。
私の中で言葉が言葉で遊んで、意味をなさなくなってきました。それなので今日はここまでにします。では。

ところであなたはどこに行くのか?それとも来るのか?

2015/7/21

言葉の意味を狭めるには漢字を使うと良い。どこにも行けないように漢字を使うのである。もしくは、どこにも来れないように漢字を使うのである。どこにいこうにもあなたはついてくる。私の思考の中で、どこにいくのか指示もせずに寄生虫のように私の思考をコントロールしようとするのである。私は誰であっても私であることから逃げることは出来ないのである。それは私があなたの僕であり、あなたの主であるから。そのどこにも逃れられない一つの思考は、私に何を求めるのであろうか?そこには遥かな彼方からやってくる、善と悪の化身がやってくるのである。
私は言いました。“人は生きています。しかし、生きていても死んでいる人がいます。”
私は聞きました。“あなたは生きていますか?それとも死んでいますか?”
私は私に言いました。“わかりません。わかろうとしません。”
“なぜですか?”言葉に理由はないのである。範囲がある言葉には私が理解する言葉以上のことを述べることが出来ないのです。女の人を抱いたとします。そこには言葉に表すことが出来ない、もちろん今のところですが、肉感があります。肉屋の肉感ではなく、エロスの肉感です。その肉感から想像するのは、滴り落ちる血ではなく、滴り落ちる愛欲が残るだけです。その愛欲がどのようなものであったとしても、それは肉感ではなく、肉欲であるのです。

私の体は生きています。思考していなくとも生きています。思考するのが私達の存在ではないのです。もちろん思考していなければ、私達は私達の存在を認めることはできないので、それは私にとっての存在と言えないのかもしれませんが、私の体は生きています。その証拠に私は、排便をします。汗をかきます。物を消化します。思考せずとも生きる力、自律神経が私を動かします。そこには、言葉がありません。すなわち物事の順序がないのです。言葉は、順序を求めます。その言葉の順序が私達の思考を決めます。そのために私達は行く場所にいかなくならなければならないことが起こるのです。どこに行くのでしょう?どこから来るのでしょうか?
私は話をしました。“スンドロビックス、ソドロクナ”意味が分かる人は天才です。天才にならないようにこの言葉があります。それは私達をどこにもつれていこうとはしません。そこにあるのは、何も感じない言葉の羅列です。

今日はここまでにします。時間が迫っていたのを忘れてしまいました。では。

時間の管理を自分でするのは難しく僕の才能では何もできない

2015/7/17

時間とはどこに存在してどのように消えていくのだろうか?消えていくのが見えれば、私は存在していることを認知することができるのか?はたして、私が感じる時間とは、私達が勝手に思い込んでいる幻のようなものではないのだろうか?人は時間をどの様に管理すれば良いのだろうか?時間の存在を理解できない私に時間を管理することはできずに私は一人佇む。それは果てしなく長く、はてしなく短い、時間の中の幻想を彷徨う亡霊のようなものなのである。

2014年に私は、夢を見た。それは、昼の暑い日の光の中での一コマであった。私は現実と夢の中を彷徨い、荘子の中の蝶ではないかと一人思いを巡らしていた。それは今私をメビウスの輪のようにつなげる一つのつながりでしかない、時間のつながり?それとも空間のつながりなのである。時間もメビウスの輪のようにねじれることがあるのだろうか?そんなことを現実とも夢ともわからない日の光の下で感じたのである。私はどこにいる。

そこの場所には時間がなかった。時間があるのは、私の認識の中でありそれ以外の場所では私は時間を見ることはできない。そんなことはどうでも良いことであり、どうでも良いことはそのままにしておくのが一番良いのである。しかし、私の中に存在する時間は、私が時間の存在を忘却することを許さず、私を追いつめるのである。それは、才能のない私を死のふちに追い込む、時間忘却の一つの方法論である。論は、私を縛り、私はその中から逃れられない。そんな中に住み私は私の存在を寂しく、空しく感じるひと時を、忘却の中で楽しく、美しく理由を付けるのである。基本何も変わらないのであるが。

私はそのように時間を考え、空間を理解する。そこには、人が超えられない一つの形が存在して、答えのない空間、時間があるのである。そこには、何もが理解できない一つ、もしくは多重の世界があるのである。

形而上学を考えるには朝がいい

2015/7/16

形而上学を歌うのならば朝がいい。誰もいない木の間を一人歩き歌うのだ。(ツァラトゥストラのようにはいかないだろうが)あなたが私のことを愛してなくとも/私はあなたを愛する/どこまでもいつまでの/遠く遥かな声に私は振り向き/私は遠くで私の声が聞こえる/いつまでもどこまでも/陽の光の中に/私は愛の芽吹きを見つけ/一人微笑む/それは命の芽吹き/情熱の幸せ/自然の営み/形而上学を愛する僕は/一人奏でる愛に微笑み/そして凍る/

何が売れているのか?

2015/7/15

世の中には、お金があり余っている。そんなことは、世の中の資源の高騰、不動産の高騰、金融緩和を見ていると、なんとなくではあるがわかると思う。しかし、それ以外でもいろいろなものが高くなっている。まずは、クラッシックカーである。排ガス規制の前のモデルは大きく値を上げている。免許登録さえしない車が世の中で買いあさられている。アートもその一つである。ピカソ、ルノアール、だけでなく、現代アートも売れている。その中に位置する、おもちゃの大きなものなどは、意味が分からないが高騰している。農地が上がっている。(既にバフェットは、農地の投資を奨励している。2045には100億人を超える?)何が良い投資であるのか?それはわからないのであるが、人は投資をしたがるのである。(お金が余っているのである)

しかし、一方で銀行などの金融機関はお金を貸す先を探している。金融の仕組みが変わってしまったのである。(これからは、金融機関を通すことのないネット融資が起こるのであろう。)そうなると、私達は社会の仕組みを理解して、何が売れているのか?何に投資をすれば良いのか?と知識の幅を広げなければならないのである。今までに仕組みが使えない世の中は、今までの仕組みを使って生きていた人には住みにくい世の中になる。(夏目漱石の草枕?)お金には色があるのである。バラ色、黒色、その他諸々。

ペットが売れている。一人の人が増えているから?癒しが欲しいから?犬は散歩をしなければならない。しかし、猫は散歩の必要がない。だから猫である。それとも藤田が描いたから?それとも速水が描いたから?ペットも商品だ。街には多くのペットショップが立ち並ぶ。お墓まで栄えているそうだ。

私も母のお盆に墓参りをしたのであるが、寺も商売をしている。私は母の死を経て感じたこと。葬式はしない。売れないものが大切だったり、私の心のよりどころだったりと、売れないものを探しているのであるが、それでは商売人失格であるのでしょうが。

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